君を泣かせた奴はいつか必ず

永遠に穏やかに生きたい


スポンサーリンク

好きの呪縛

はてなやnoteで推しがいる人の記事を見るのが好きです。
握手会のレポートとかライブレポートとか、よく知らないアイドルであってもその人が推しのことどれだけ好きかわかるだけでこちらもあたたかい?気持ちになります。エモいを通り越して気持ち悪い記事も最高です。

 

自分の人生がかけられるほど好きなものがあるって羨ましくないですか。
わたしはすごく羨ましいです。

推しのことが好きで大切で、推しのことで本気で悩んだり喜んだり。他人に対してそんな風に思えることって早々ないです。

 

わたしも、かつてすごく好きなアーティストがいて本当に好きで、わたしの人生そのものだと思っていたんですが、今は新曲が出ても「お、そっか~」くらいだし、ツアーが決まってもチケット申し込まなくなりました。
特に何かきっかけがあったわけではなく、社会人になってから少しずつ推しに使う時間が減っていきました。

実質、推しを辞めたんだと思います。

 

※「推し」ってどうしてもアイドルのイメージ強いんで使ってて違和感あるんですが、顔が好きだから推してるとかでなく、こんなわたしの感情さえも歌にしてしまうというのかジーザス!!くらいの存在を言い表す言葉で一番近いものが「推し」な気がしたので、推しって言葉を使わせてもらいます。

 

でも、推しの定義ってよくわからなくなったんですよね。
わたしはそのアーティストのことを”推し”てたと思ってたんですが、世の中だれかの推しをやってる人を見ると「わたしってそのアーティストのことほんとに推してたのかな?推しって名乗れるレベルだったのかな?」って思うようになりました。
だってみんな推しのことめっちゃ好きじゃん!(だから推すんだけどな)

 

間違いなく推しはわたしの生きがいだったんですが、わたしの好きは少し歪んでいたのか推しでいることで何故か苦しいことが多かった気もします。

 

それは、好きの証明を自分にしようとしてたからかもしれません。

例えば、廃盤になったCDを持っている、ツアーのTシャツを全種類買う、雑誌に出ればどんな小さい記事でも読む。
実際はもうちょっとえげつない、気持ち悪い部類の行動もしてたと思います。(ストーカー的な迷惑行為ではなく、毎日朝の6時に起きてそこから2時間そのアーティストの曲を正座して聞く、みたいなやつです。気持ち悪いね)
本当に好きだから、そうしたいからそうしてたんですが、今振り返るといつの間にか自分の中で「好きなんだからそれくらいできるよね?」と思っているというか、自分自身に制約をかけていた気がします。

 

あるとき、好きってそういうことじゃないなって思いました。
いや、そういう好きの形があってもいいんだけどさ!
わたしの場合は途中から、好きというより好きの呪縛にかかってた気がします。

ちなみに、推さなくなった理由はこれ1つではなく、複数の要因があったとは思います。メディア露出が増えたり、ファン層変わってライブで居心地が悪く感じるようになったり。それはわたしの情熱の問題なんでしょうけど、すごく気後れしてしまって「ああ、わたし懐古厨だな」って思ったのも大きかったと思います。

 

でも推してた時って本当に楽しかったです。
もうその人を推しているという事実だけで強くなるし、日常で起きた悲しいことも推しのおかげで無敵でした。推しと同じ時代に生まれたことに感謝し、推しが推しであることに感謝する日々でした。

推しはわたしの神様でした。
ちなみに推してるとは言えない今でも、もちろん応援しています。

 

今、誰かを推したい!と思っても、誰かのことを人生欠けて応援することはできないし、もうわたしは何かを猛烈に好きであることを自分に証明することはこの先ないと思います。
推しを推し続けることって難しいことなのかもしれない。(推しって書きすぎてそろそろ推しって書くの疲れてきた)

 

これ実際に書いてみると推しがいる当時のわたしただのメンヘラじゃんって思いました。
ちなみに推さなくなってからメンヘラは治りました。

心健やかなヲタクになりたかったな。