年のせいかのか、コロナによる環境の変化のせいなのか、この1年で自分が自身に求めることが変わったと感じます。
なんというんだろうか。
自分ってこういう人だよねって認識ってそれぞれ多かれ少なかれあって、こういう人だよねって思う理由は「こういうことが好きだから」「こういうことが嫌いだから」「こういう人になりたいから」みたいなのが基になっていると思うのだけど、ここ最近それが変わってきた。
私ってこういう人だよね
よく「本当の自分がわからない」って話を聞くけど、わたしはこの悩みを持ったことがない。
誰といてもわたしにはわたしがよく見えていた。
優しいという逃げ
幼稚園の時から周りのお友達にもよく言われた。「やさしいね」。
わたしが優しい理由は自分でもよくわかっていた。
基本は嫌われたくない、他人を怒らせたくない、八方美人でいたい、どうでもいい人に優しくすることが苦ではない。この辺りだと思う。
もちろん人に親切にしたいって気持ちもあるのでこれだけが全てではない。
社会人になってもよく「優しいね」と言われた。極力、人の悪口は言わなかったし、わけわからないオーダーをしてくる人に対しても親切を心がけた。
でもそれは自分の意見を他人にぶつけて妥協点作るのがめんどくさいし、いちいち反応すると疲れるというものある。
そもそも社会人での「やさしい」ってあんまり誉め言葉じゃないと思うんだよな。
自己肯定が低く自己犠牲を美徳と思う
小学生くらいまで自己肯定感は低い方ではなかったと思う。
中学生ぐらいになぜか謙遜というなの自己卑下を周りがし始め、わたしもそれが美徳であるような気がしていた。
太ってないのに「わたしデブだし〜」とか言うあれです。
あと自己犠牲することが正義と捉えられていた。「あの子は我慢してて偉いよね」とか「あの人かわいそうだよね〜それに比べてあいつはクソ」みたいなのが学生時代に煙満していて苦労して我慢してる子が正義みたいな感覚があった。
いやたしかに苦労してたり我慢して何かを成し遂げる人って立派なんだけど、それを美徳として満たすとわたし身の程弁えてます感あって、コミュニケーションが楽になると思っていた(わたしの感性がひん曲がっている可能性が高い)
だんだんこういう自己否定の言葉が口癖になって、高校生の時は口癖が「もうダメだ」の立派なメンヘラだった。
ちなみにメンヘラは歳をとると治ったけど、自己肯定は低く、自己犠牲の精神は持ったままで恋人ができれば尽くしすぎてダメ男を製造してしまい、挙句、一時期は自分がやっていることが全て間違っているのでは??という不安に駆られ、足し算や時計の読み取りなどできているはずのこともできてなくなった。ここまでくると病気なので休んだほうがいいです。
ちなみに今の口癖は「すいません」。いつも謝っている。
私が私であることによる副作用
すべては自業自得なんですけど。本当に。
自己肯定感が低くて他人に優しく自己犠牲をし続けるとどうなるかというと、1人の時間が何より好きで、その時間のふとした時に「全員消えればいいのに」としょっちゅう思っていました。
自分でも最低すぎて引くんですが、全て自分が選択してるのに他人のことが大っ嫌いなんですよね。
相手からするとわたしが何でも「いいよ」と言うのでそういうコミュニケーションになったのに、その一方で「もう嫌だ消えろ」と思われてるのもはやホラーでしょ。
もう疲れたわ。そういう自分がここ1年で嫌になってきた。
どんなに優しくしようが自己肯定低かろうが、他人って絶対自分に興味ないし過ぎ去っていくだけなのでは?ということを最近思い始めた。
明るい人にワイはなる
じゃあどうなればいいんだろうって考えた結果、自分がしたくないことは嫌な顔されても断るし、やりたいことやったらいいんですよね。
それをわかっていても今までの行動が染みついてて素直にそれができないので、最近はリハビリだと思って嫌なものは避けるし、真正面から笑顔で「嫌です」と言う練習をしている。
明るく「いや、わたしはこう思うんで」って意外とみんな普通に言ってるんだよな。
仕事で自分の案件だとめちゃくちゃ強気なのに、それ以外だとなんでこんなダメダメなんだろうな。
もっと明るくて勝手で楽しい人にワイはなるんや・・
こんな意味不明な日記、誰もまともに見てないだろうと思って殴り書きでした。
胸糞悪くなっても怒らないでください。
あとこのブログの方向性がずっとわかりません。
また1ヶ月がんばって毎日更新しようかな…。
ちなみに今日のサムネはCanvaで作りました。作るのめちゃくちゃ楽しかった。
Canva Proを使ってたまに副業のバナーとかも作ってるんですが、無料だけでもめちゃくちゃ優秀です…。
お題「#この1年の変化 」